2005. 10. 16.の説教より

「 イエス様など知らない 」
ヨハネによる福音書 13章36−38節

 今日の3節をもって、この13章は終わることになりますが、これまでの学びの中で学びました「イスカリオテのユダの裏切り」の話と共に、今日のこのところで、シモン・ペトロに対して、「イエス様のことを三度知らないと言うことになる。」とのイエス様の予告が語られているということには、あるひとつの意味があるものと考えられます。つまり、イエス様のことを裏切ったという意味では、イスカリオテのユダだけでなく、シモン・ペトロも同様だったのではないか、ということです。確かに、イスカリオテのユダの裏切りに比べれば、シモン・ペトロの裏切りなどは、わたしたちの感覚からすれば、「月とスッポン」と言えるほどの違いがあるあるようにも思われるものですが、イエス様の心を理解してはいなかった、少しも分かってはいなかったという意味では、同様に、そこにはイエス様への裏切りがあったと考えることができるのではないかと思われるのです。
 しかも、シモン・ペトロの、イエス様のことが分かっていなかった、受け止めてはいなかった姿などを、今日の36節・37節などから見ますとき、まさに、わたしたち同様の、トンチンカンなところが、シモン・ペトロにはあったことを思わざるを得ないわけです。それこそ、シモン・ペトロならば、イエス様から、何度となく、ご自身が、人々の身代わりとして間もなく十字架につけられることについて、三日目にイエス様が死より甦ることについて、そして、父なる神様の御許に帰ることについて聞かされていたはずだと考えられますので、イエス様が、これからなされることについて、もっとわきまえていてもよかったのではないかと思われるのです。それにもかかわらず、イエス様とのやりとりおいて、まったくトンチンカンなことばかりを言っているからです。また、そうだからこそ、イエス様が、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と言われた言葉を理解できず、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」との勇ましい言葉を、あっさりとシモン・ペトロは言うことができたのではないかと考えられるのです。
 思うのですが、勇ましい言葉を口にすることができている時のほうがかえって、当てにならないと言いますか、よく考えてはいないことがあるのではないか、と思われることがよくあるわけです。先の選挙の時に、郵政の民営化に反対した人たちは、いったいなんだったのだろうと思うのですが、選挙の結果、大勢が郵政の民営化に賛成ということになり、自分たちの立場が悪くなってきますと、みんな賛成派にまわってしまい、反対を唱える方などいなくなってしまっているわけです。よく言われますように、郵政の民営化に反対ということで当選してきたのに、そのことをどう思っているのか、ということになるわけです。しかし、それが、そうした政治家だけでなく、わたしたちた、一人ひとりの現実ではないかと思われるのです。それぐらい、わたしたちの勇気とか、元気とかいうものは当てにならないものではないでしょうか。ひと度、旗色が悪くなってしまいますと、反対の行動にでることがあるのが、わたしたちの現実だということです。そうではないでしょうか。
 たとえ、そういう旗色がどうかということがなくても、わたしたちの勇気とか、元気とかいうものは当てにならないなあ、と思わされることに直面することがあるのも、わたしたちの偽らざる現実ではないかと思われるのです。かえって、そうした勇気とか、元気などなく、一見、ほんとうのところは、どう考えているのだろうかと思わざるを得ない人ほど、また、さまざまな迷いがあって、はっきりとした意志や思いを表すことができないときほど、しっかりと最後まで、やらなければならないことをやり続けくださることが、やり続けることができるということもあるのではないかと思われるのです。実際、そういう経験を、わたしなども、今までに、何回となく経験させられてたわけです。そんなこともあってか、はっきりとした決意なり、意志を表される方にお会いしますと、この方は、だいじょうぶなのだろうか、といった思いをもってしまうことが、正直、あるわけです。その反対に、迷っておられて、なかなかはっきりとした意志や思いを表すことができない方にお会いしますと、ちょっと心配にはなりますが、なにか安心できる思いにさせられることがあります。なぜなら、あれこれと考えているからこそ、はっきりとした意志や思いを表すことができず、迷っているというふうにも考えることができるからです。
 同様に、わたしたちの信仰のことについても、そうしたことが言えるのではないかと思われるのです。つまり、「神様のことがわかった。」、「信仰のことがわかった。」という方ほど、危ないということです。また、実際、そうではないかと思われるのですが、わたしたちにとって、「神様のことがわかった。」、「信仰のことがわかった。」と言えるときなどあるのだろうか、と思うのです。これは、どういうことなのだろうか、神様のことも、信仰のことも、どうしてもわからない、ということがあるのが普通ではないかと思われるのです。聖書のことを学べば学ぶほど、神様のことを考えれば考えるほど、わからなくなってくることがあるのがほんとうのところではないでしょうか。また、そういうところがあるのが聖書であり、わたしたちにとっての神様ではないかと思われるのです。逆に言いますと、わたしたちが、少しぐらい学んだぐらいで、考えたぐらいでわかる程度のものであったとしたら、聖書も、神様もたいしたものではないということになるのではないでしょうか。他の人のことさえわからないわたしたちが、わたしたちを造られ、導いてくださっている神様のことがわかることなどあり得ないように思われるからです。そういうことから言っても、聖書のことがわからない、神様のことがまだまだわからないとしか言えないときのほうが、正常なのではないかと思われるのです。ただ、そうだからと言って、聖書のことが、神様のことがわかったら、神様を信じるとか、洗礼を受けるという方は、どこまで行っても、神様を信じることができるようにも、洗礼を受けることができるようにならないことは確かです。わたしたちとしてできることは、また、すべきことは、わからないならわからないままで、迷いがあるならば迷いがあるままで、神様にくっついて行くことしかないからです。どこまでも求道者であり、途上にある者としてあることしかできないのが、わたしたちだというふうに考えられるからです。
 また、そうだからこそ、聖書の話を聞いておりまして、神様の話を聞いておりまして、わからないことがいろいろあったとしても、その中で、一つでも二つでも心に響くことがあれば、信じられることがあれば、それでよいのではないか、聖書の読み方としても、神様を信じて歩むとしても、それで良いのではないかと思うのです。こんなことを言いますのは、わたし自身が洗礼を受けましたときに、他にも何人かも方が洗礼を一緒に受けたのですが、それこそ、これからは神様を信じて生きて行きますということを、涙ながら言われて洗礼を受けられた方々だったのですが、3年も経ちますと、それらの方々の誰一人として礼拝に来られる方はいなかったわけです。なにもわからず、なんとなく洗礼を受けたわたしだけしか残っていなかったわけです。そんな経験があるものですから、感動的なかたちで洗礼を受けられる方に、感動的なことを言われる方にお会いしますと、そのことには申し訳ないのですが、ほんとうかなと思いを持って見てしまうところがあるわけです。それぐらい、わたしたちの感情的なものも、思いも、決意も、当てにはならないものではないかと思われるのです。その思いや決意よりも、神様を信じる者として、少しでも、この時を大切にしながら、自分たちに今できることをやって行こうとすることこそが、わたしたちにとっては大切なのではないかと思われるのです。ですから、どれだけのことができるか、どうかということなど、あまり考えなくても良いのではないでしょうか。わたしたちとしては、神様にお任せしていれば、それで良いからです。
 また、そのことを、今日の、ここでのイエス様とシモン・ペトロとのやり取りは、わたしたちに語っているのではないでしょうか。37節・38節ですが、イエス様のためならば、どこへでもついて行くことができる、それこそ命をかけことさえできると思っているシモン・ペトロに対して、イエス様は、こう言われたのでした。「イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」つまり、あなたは、命を捨ててでもわたしについてくることができると思っているが、あなたにはそれはできない、むしろ、今、言っているのとは正反対のことを言うことになる、とイエス様は言っておられるわけです。あなたがたのできるという思いなど、実に当てにはならないというわけです。そんなできるとか、できないかと言うことよりも、自分にはそれだけのことをやるだけの力はないけれども、今、自分にできることはやりますという謙虚さ、謙遜さが大切ではないかと、イエス様は語っておられるように見受けられるわけです。また、実際、謙虚さ、謙遜さというのは、自分には、そのようなことなどできないと言って頑固に、尻込みし続けることよりも、とてもそこまではできませんけれども、今、わたしにできることはしましょうと言って、できることはやろうとすることがあってこそではないかと考えられるのです。そうしたことから言っても、わたしたちにできることを、たとえ不十分なものであっても、僅かなものであっても、神様に用いていただけるように、差し出してわたしたちでありたいと思うものです。